私たちの園についてわがまち散策歴史とロマンを伝えるまち
   ■茨木童子貌見橋(いばらきどうじすがたみばし)と兵枡(ひょうます) ~茨木城の痕跡~
     
     茨木みのり幼稚園の北800m、大阪府立茨木高校の正門の東100mの、茨木市新庄町に「茨木童子豹見橋(いばらきどうじ すがたみばし)」という小橋がありました。
伝説によると、茨木童子は水尾村の生まれと云われ、幼児期に茨木村のはずれ、九頭神(くずがみ)の森(現在の茨木高校付近)に捨てられていました。それを近くの髪結床屋の主人が拾い上げ、大切に育てました。床屋の手伝いをしていた童子がある日、お客の顔を剃っていた時に、誤って手をすべらし、お客に傷をつけてしまいました。あわてた童子は、吹き出したお客の血を指でとり、ペロリとなめました。一度血の味を知った童子は、その後わざと傷をつけて血をなめるようになりました。うす気味悪がったお客は、店に来なくなり、床屋はさびれてしまいました。床屋の主人に厳しく小言を言われた童子は、ある日、近くの小川の橋の上から水に映る自分の顔を見て、いつの間にか鬼の顔に変わっているのに驚き、人間世界では住めないので、大江山の酒呑(しゅてん)童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になったといわれています。その小川の橋は以来、茨木童子豹見橋(いばらきどうじすがたみばし)と名づけられ、床屋と小川のあったといわれるところに、その橋の碑がたっています。
   
 
       
   新庄町の「茨木童子豹見橋」の説明板のあるあたりに、「兵桝(ひょうます)」がありました。昔、大坂口とも言いました。この付近には珍しくこの位置だけが横五間半(約10m)縦12間(約22m)の長方形になっています。地元古老はここを「兵桝」と呼び伝えてきました。
「兵桝」とは茨木城有事の際、また軍兵が出陣するとき、兵士の集まる所で、人員改めの後、軍勢を整えたところで、武者だまり・馬だまりとも言われ、ここで攻めてくる敵の勢いを鈍らせたり、防禦(ぼうぎょ)の砦としての重要性を持っていました。 城内一の門近くにあるのを「内桝(うちます)」と言い、城の外郭表口近くにあるのを「外桝(そとます)」と言ったようで、どちらも方形の広く平らな地で土塁などで囲んであったとも言われています。
現在も耳を澄ますと兵士たちの具足の音が聞こえそうです。

参考資料:茨木市教育委員会「わがまち茨木」(街道編)/
     茨木青年会議所VIVA茨木「ふるさとみつけた」