私たちの園についてわがまち散策歴史とロマンを伝えるまち
   ■枝切(えだきり)街道
 
 茨木みのり幼稚園の正門前の府道は、昔から枝切街道(えだきりかいどう)(別名「鳥養(飼)(とりかい)街道」)といわれていました。この街道は淀川を挟んで河内と攝津の国の茨木やそれ以北の山間部の村々を結ぶ重要な役割を果たしていました。
『大阪府誌』によると、起点は茨木町大字茨木(現在の大手町)で、玉櫛村・宮島村を通って鳥飼村大字鳥飼下で高槻街道支線に合流する、延長距離2里33(約11.45km)とされています。

 
 
  大手町附近 大手町(柏木サイクル前) 新庄町(茨木童子貌見橋)
 
 大手町の柏木サイクルの角から南に向かい、大手町・新庄町を抜けて府道八尾茨木線を渡り、阪急電鉄京都線のガードをくぐって主原(あるじはら)町に入る。新庄町には茨木童子が小川に姿を写したといわれる茨木童子貌見橋(すがたみばし)、柳谷観音献燈籠があります。ここからは現在の府道八尾茨木線とほぼ同じで、水尾公園(以前は水尾池)、玉櫛小学校、茨木みのり幼稚園正門前を通って玉櫛・沢良宜東町(さわらぎひがしまち)に入る。現在この道は島までまっすぐに延び、摂津市鳥飼を経て寝屋川市に通じていますが、以前は南地区公民館の前あたりで東に折れ真砂(まなご)に入っていました。西方寺のあたりから南に折れる。ここからの道は現在消失していますが、島の葦分神社のあたりで、再び府道に出て島の中を抜けて南進していました。島から府道大阪高槻京都線を渡り、宮島の大阪府食品流通センターを越えて、安威川に架かる宮鳥橋・宮鳥小橋を渡って摂津市鳥飼(五久)、さらに淀川を仁和寺の渡し(昭和52年に廃止、現在鳥飼仁和寺大橋)で寝屋川へ通じていました。
 慶長19年(1614年)、茨木城主片桐旦元(かたぎりかつもと)は、大阪城において大野治長(おおのはるなが)等と対立し、ついには身の危険を感じて、10月1日卯の刻(午前6時頃)一族郎党を引き連れて玉造門を出て一旦大和路に出、河内の国荒川で弟貞隆等と分かれ鳥養の渡しを渡り、五久(御厨)から枝切街道を通って夕刻無事茨木城に入城したといわれています。
大阪の中心部、八軒家(現在の天満橋松阪屋の西側)から、淀川を京都へさかのぼる航路の中継地である三島江(高槻)を経由してこの街道を通り、能勢の妙見山への参詣道としてもたくさんの人の往来がありました。
参考資料:参考資料:茨木市教育委員会編「わがまち茨木」 街道編

 
新庄町(茨木高校南交差点阪急京都線ガード)
 
水尾公園前
 
  茨木みのり幼稚園前 新和町附近 府道大阪高槻京都線交差点附近