私たちの園についてわがまち散策歴史とロマンを伝えるまち
   ■水尾城址 所在地:茨木市水尾3丁目3番10号
     
   茨木みのり幼稚園の北東に水尾城跡があります。
水尾城は応仁の乱で全焼した紫雲山西方浄土寺(しうんざんさいほうじょうどじ)の焼跡に造営されたお城です。この西方浄土寺は北は水尾集落より、南は真砂集落の北はずれまで、東は内瀬集落をこえて高瀬川にまたがる数万坪の寺域に七堂迦藍(がらん)を構えていました。
 応仁・文明の乱の2年のち美濃国(岐阜・大垣)守護代斎藤妙椿が没したあと主家斎藤家の内紛のため平尾孫佐エ門は斎藤家を離れて西方浄土寺の焼跡・奥の院の勝光寺の東、佐奈部神社の南、高瀬川に沿った一画に新しく「トリデ」を築いたのが「水尾城」のはじまりと思われます。
 
  玉櫛遺跡検出条理遺溝
       
   城のことについては「福井近郷古跡古代上下」という和綴字本の中に
1. 永禄9年(1566)10月20日池田筑後守勝正、茨木城に発向し、長田(ちょうだ)河原(市立斎場付近)に陣し、芥川の城を中村新兵衛高次、高槻城主入江左近将監らと相戦う。入江は富田の間に陣し、中村は総持寺村門河堤(もんこてい)に陣す。入江中村らは敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
2. 永禄10年10月10日夜、南都大仏殿において三人衆(三好一党)と義継(12代将軍足利義晴の弟)は久次(松永弾正)と相戦う。時に中村新兵衛高次、茨木佐衛門尉(城主)、水尾の郷士(元は斎藤妙椿の浪人)平尾孫左衛門らは三人衆に属す。
と記されています。ここにいう中村新兵衛は茨木の名門、釘新(くぎしん)(釘屋新助、醸造業(酒、しょうゆ))、水尾の郷士平尾孫左衛門は平尾本家の先祖です。
 
  水尾の寺・社・城配置図
 
       
   平尾孫左エ門は斎藤妙椿の孫の代になるかと思われ、水尾移住後も戦国小名として武者の旗をたてていましたが、織田信長が足利義昭将軍を奉じて入京するや旧勢力一層のため各所で焼打ちをしたため、弓馬を捨てて帰農しひたすら村の草分けとして開拓にはげみました。水尾荘はのちに徳川幕藩体制により水尾村、内瀬村、真砂村の3村に分かれましたが平尾家は代々庄屋として世話をし続けて明治、大正を迎えたということです。
参考資料:茨木市教育委員会「わがまち茨木」(城郭編)