私たちの園についてわがまち散策歴史のロマンを伝えるまち
   ■玉櫛(たまくし)遺跡
   
   玉櫛遺跡は大阪府営玉櫛団地の建替工事に伴い発掘されました。その範囲は現在のところ茨木みのり幼稚園と玉櫛小学校を北の端とし、西はさくら通り(元茨木川)、東は玉櫛二丁目府住跡地、南は都市計画道路沢良宜・野々宮線に接する玉櫛一丁目・玉櫛二丁目にある府住跡とされています。
   
    (財)大阪府文化財調査研究センターは玉櫛遺跡につき、次のように報告しています。
●奈良時代以前
縄文時代については晩期の遺物がわずかに含まれているが定かではありません。弥生時代については一地区の調査にとどまりましたが弥生時代中期後半の大きな溝などの遺構が検出できました。方形周溝墓の可能性もあるようですが断言はできません。但し北西1kmのところに弥生時代の集落として有名な東奈良遺跡もあり茨木川をはさんでこの周辺に集落が広がっていたとしても不思議ではないと考えられます。
  玉櫛遺跡あと  
 
       
  ●平安時代後半
古墳時代~奈良時代にかけては遺物量も少なく明確ではありません。
時代がやや隔って平安時代後半、10世紀後半~11世紀代の水田遺構が検出されました。
南北及び東西の畦畔はほぼ正方位にのったもので、条里にのった区画割が10世紀後半には施行されていたことを示しています。
また荷札、木簡が出土したことは物資の集積される場所としてこの周辺が機能していたと思われます。
● 平安時代末
11世紀末代になって掘立柱建物数棟と井戸などで構成される集落が出現します。
● 鎌倉時代前半
平安時代末の遺構面とほぼ同じ位置に引き続き掘立柱建物群が形成されていて連続した集落として形成されたものと考えられます。
● 鎌倉時代後半~室町時代初め
集落が全域にわたって形成されるようになりました。建物の規模も主屋が4間×5間の建物になるなど規模も大きくなり、主屋、副屋の構成がはっきりしてきました。また集落が溝によって区画されるようになりました。
● 室町時代前半以降
14世紀後半以降屋敷地を区画する掘ともいえるような大溝も検出されましたが一帯の景観としては集落は営まれなくなり、畑などの耕作地が広がっていたと考えられます。

ともあれ今回の調査では、11世紀後半から15世紀代にかけて、玉櫛遺跡周辺では大規模な建物を主体に屋敷地を形成する主体がいたことが判明しました。集落の規模、その継続性、出土遺物の構成が多様であることや、希少性の高いものが多いことなどからも、玉櫛遺跡の主体は荘園を支配する在地領主層そのものだったと考えられます。
   
   この遺跡が茨木川流域に位置することから摂津の荘園の特徴として、京都・奈良と西国・南海をつなぐ水陸交通の要衝にあり、水運を生かして、活発な交易、流通を行っていた在地領主層の姿が浮かび上がるように思われます。玉櫛遺跡では集落址以外にも畑・水田などの耕作遺構が検出できました。年代は10世紀前年からのもので南北に長方型の条里区割がなされていたと思われます。復元された条里地割によると、玉櫛遺跡は四条九里二十、二十一、二十八、二十九坪にあたります。  
      玉櫛遺跡検出条理遺溝
   
   また玉櫛遺跡は平安時代末から室町時代までの継続する集落址を検出しそれに伴って大量の土器も出土しました。量・種ともに豊富でこの地域の中世土器研究の指標となるような資料が揃っています。畿内の都城域以外では余りみられない瀬戸や山陰地方の土器までがあまねく流通しており、豊富な器種をもつことなどこの遺跡の特異性を示しています。土器以外でも九州西彼杵半島が産地として知られる滑石製石鍋もかなりの点数出土しており、鮮やかな文様の漆器椀・皿も合わせると、玉櫛の住民の食卓は相当豪華なものだったと言えます。出土時の豊富さの点からも玉櫛遺跡の主体の卓越性を感じます。そしてこれらの種々様々な生産地の製品供給を支えるためには、茨木川の水運を生かした商品流通体制と玉櫛遺跡の主体が何らかの関係をもち得ていたと思われます。
参考資料:(財)大阪府文化財調査研究センター「玉櫛遺跡」