私たちの園についてわがまち散策ふれあいと学びのまち
   ■玉櫛小学校 所在地:茨木市水尾三丁目1番51号
     
   茨木みのり幼稚園のお隣りにある玉櫛小学校は明治7年6月1日に島下郡第三小区二番小学校として水尾の勝光寺において開校し、明治26年4月水尾小学校として改称。その後沢良宜小学校を統合して、現在地に村立の玉櫛尋常小学校となりました。その後、玉櫛農業補修学校や玉櫛青年訓練所を併設したり、玉櫛国民学校、戦後は玉櫛村立小学校と呼ばれてきました。昭和23年1月、玉櫛村が近隣3ヵ町村と合併して茨木市となり茨木市立玉櫛小学校となりました。その後校区の人口増加に伴い、昭和46年に水尾小学校、昭和48年に天王小学校、昭和49年に葦原小学校、昭和57年に東奈良小学校が創立され通学区が分かれ今日に至っています。
 茨木みのり幼稚園の子ども達も運動会やプール遊びに広い場所をお借りしたり、一日入学や学校見学などで交流を重ねています。
 玉櫛の地名は明治22年4月の町村制施行に際し、地縁の深い、水尾・内瀬・真砂の3ヵ村と同じく沢良宜東・沢良宜西・沢良宜浜の3ヵ村の6ヵ村をもって新村とすることになり、その呼称をどのようにするか色々考えられました。そこで、隣接地の溝咋神社(みぞくいじんじゃ)の祭神で大へん美しい響きをもつ「玉櫛媛命(たまくしひめのみこと)」から「玉櫛」の名が用いられました。
 
   
 
   
   
       
     玉櫛媛(たまくしひめ)はその昔この三島地方の豪族で大きな力を持った三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)の娘で溝咋(みぞくい)の地(現在の五十鈴町、星見町、平田町、目垣、玉島地域)で育ちました。やがて出雲の国を開いた大国主命(おおくにぬしのみこと)の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)と結婚し、後に神武天皇(じんむてんのう)の皇后となった五十鈴媛(いすずひめ)を生んだと記紀は伝えています。この事からもこの地は早くから開けた土地柄であったことがうかがえます。 同校の正門横に建っている玉櫛媛(たまくしひめ)が幼い五十鈴媛(いすずひめ)を抱く「母性愛像」には「天に清らかな星。地に花の恵み。人に愛と平和の鳥」を配して構成され同校のシンボルとなっています。
参考資料:佐奈部農業資料館建設委員会「開館記念誌」
  玉櫛媛の像